「間違える事」について

人間、「間違えないように、間違えないように」と思っていると、ついつい間違えてしまう事がある。

私は常々「何故人は間違えるのか?」について考えていたのだけれど、その答えにある日気がついた。

「人は間違えることがある。」のでは無く「人は間違えるように出来ている。」

のである。これは言葉のレトリックや比喩ではなく、生物学的にそういう仕組みに出来てるのではないかと思う。

人間、同じような反復作業をしていると、どこかでついつい間違えてしまう。これには誰でも経験があると思う。
同じ言葉を何十回も言っていると、どこかで言葉が入れ替わったり、間違えたりしてしまう。

何故そうなのか?私は専門家では無いから理論的な説明は出来ないけれども、想像する事は出来る。

同じ作業を繰り返していると、同じ伝達神経を酷使する事になる訳だから、神経が疲労してしまうに違いない。
その疲労がある閾値を超えると、同じ作業が出来なくなる。

確かに、人間は鍛える事によってそんな反復作業も難なくこなせるようになるが、それはその神経系が鍛えられて疲労しづらくなるからだろう。
それは「疲労しずらく」なるだけであって「疲労しなくなる」訳ではない。だから、間違えが起こる確率が減るだけであって、どんなに鍛えても間違えは起こるのだ。

「猿も木から落ちる」という諺があるように、昔から人間は経験的にそんな現象を知ってるのだ。

また、この手の間違いには神経系の「1/f揺らぎ」が大きく関わっていると思われるのだけれども、その辺りは妄想の域なのでここでは触れない事にしておく。

さて、そんな「人は間違えるように出来ている」ことを肯定すると、いろいろと見えてくる事がある。

「失敗は発明の母」なる言葉があるように、人類は失敗を通じて多くのことを発明、発見して進歩してきた生き物である。

発明、発見の歴史にこの手の例は枚挙に暇が無い。
近年でその良い例が2002年のノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏だと思う。氏はタンパク質の質量分析に使う試薬を間違えて調合してしまったのだが、偶然にもその結果が一大発見を生み、そしてノーベル化学賞まで受賞することとなる。

もし、人が間違わずに同じ作業を延々と繰り返していたら、そこに進歩も発見も生まれなかったのではないかと思う。ある日、何かの偶然で「間違えた」時に、新しい発見が生まれる。

もっとミクロな、DNAレベルでも同じ事が言える。DNAの突然変異とはDNAを複製する際の「間違い」になる訳だけれども、この「間違い」によって生物は時に飛躍的な進化を得る事が出来る。
突然変異の大部分は生命には有害である可能性が高いのだけれども、何千、何百、何億という突然変異の1つでも良い結果になるのであれば、それは「間違い」ではなく「正しい」ことになる。

この場合のDNAの「複製の間違い」は「間違い」と捉えるよりも、むしろ積極的に「間違える」事を前提としたシステムと思えるのだ。もし、DNAの複製に「間違い」が発生しなかったとすると、生命はその誕生した瞬間の姿のまま永遠に変容する事はなかったはずである。生命としての人間の根源からして「間違い」を肯定したシステムであるのだから、人間が「間違えない」ようにする事がどれだけこの宇宙の真理から外れた事か分かって頂けると思う。

「間違える事」は決して悪い事ではない。むしろ「間違える事」は必然的に起こる事であって、それを止める事は出来ない。
だから私は「間違える事」を防ぐ事よりも、「間違えた事」をどうやってフォローするのかについて考える方が余程建設的だと思う。

しかし、こういう考え方は日本では一般的ではないのは十分承知している。日本では精神力をもって「間違えないようにする」事が正しいと信じられている。

会社で何かの間違いが起これば、それは起した人間の自己責任という事になる。間違いが許されないから、社員は日々耐え難いプレッシャーの中を過ごして行かねばならない。
人間は「間違いえる」ように出来ているのに、それを「間違えない」ようにする訳だから、そこに無理が生じて、人が歪む。組織が歪む。社会が歪む。

だから、「再チャレンジ支援制度」という物が出来たときに私は多少の感銘を受けたのだが、それがその後本当に機能したのかどうか気になってしまう。

日本の大学受験も「間違える事」を許されない良い例だ。日本の大学受験はほとんどの場合年に1回しかない。この年に一度のプレッシャーがどれ程のものか。殆どの人間は体験していると思う。
体調を病む者も居れば、精神に不調を来たす者も居る。已む終えない事情で当日受験できない人間も居る。この1日を「間違いなく」過ごせなかったが故に、どれ程の才能がその将来を閉ざされたかと思うと忍びない。

その辺、アメリカの受験システムは寛容に出来ている。大雑把な説明ではあるけれども、アメリカの大学受験はSATと呼ばれる共通試験の結果が参考にされるのだけれども、それは年に7回もある。その7回のうちでもっとも良い結果を提出すればよい。
1回2回間違えても、チャンスはあるのだ。それが受験生の心の余裕を生み、実力を最大限発揮できるチャンスを与えているのではないか。

今の日本の受験システムを変えるだけでも、日本の将来に明るい未来の可能性が開けると思うのだけれども、きっとそれは叶わぬ願いなのだろう。

何故ならば、そんな受験システムを作る側がそのシステムの肯定によって現在の地位を得た人々だろうし、世間一般の人々も人生に1度だけしか通らない受験という現実に、誰が本気になって再び異を唱えよう。
そして何より、その受験という現実に立ち向かう若者達に、受験システムを変更するだけの地位も権利も持ち合わせては居ない。

多少話がそれてしまったけれども、要は「間違えない事」を許容されない社会は柔軟性も成長も失ってしまう可能性があるという事だ。「間違える事」を許容する事こそが、この世の理だと私は思うのだ。

生命におけるDNAの進化も、発明も、そして人生においても「間違える」事によって新しい地平が生まれるのだ。

だから、「間違える事」を恐れず、「間違えても」それを受け流せるような心を持ちたいと思う今日この頃である。