無尊敬社会の到来

最近、私の周りに子供を授かった友人夫婦が多い。

多分にそういう時期なのだろう。去年から今年にかけて子供を授かった知人、友人夫婦が5、6組程は居ると思う。この歳になっても独身な私の方がそもそも自然の流れから言えば不自然なのかもしれないが。

先日、そんな家庭にお邪魔する機会があった。歳は私よりも多少若い程度の夫婦で、初めてのお子さんだ。同居ではないのだが、母方の両親が良く遊びに来ているので雰囲気としては3世代家族の様相を呈している。

そこの家庭の子供は1歳とちょっと過ぎた男の子。もう自分で歩けるようになっていて、そっちへ歩いては何かを掴み、あっちへ進んでは放り投げると言った具合。元気な事この上無い。

お祖父さんにもすっかり懐いてるので、お祖父さんに抱っこされ、お父さんが隣から覗き込んでいる姿が微笑ましい。

ここの夫婦は母方の両親と父親との仲(義理の父と義理の息子)が良いので、義理の父親が子供をあやしている時も、義理の息子の友人は黙って微笑みながら見守っている。その姿を観ていると、昔の日本の家庭の原点を観たような気になって、私はふと思索に入り込んでしまった。

日本の家庭が核家族になって久しい。自分自身も極々普通の核家族という環境で育ったものの、私は常々三世代家族こそがもっとも合理的だと考えている。

「祖父と祖母」「父と母」「息子と娘」

この3つが家庭という場で一つになってこそ、家庭は安定し、人間育成が醸成すると思っているのだ。三位一体である。(キリスト教の三位一体の定義は違うようだけれども)

「大人は子供の気持ちが判らない」と言うが、その「大人」も昔は「子供」だったのだ。なのに何故「大人」は「子供」の気持ちが判らないのか?私も自分が「子供」の頃は自分が「大人」になっても「子供」の気持ちがわかるようになりたいと願ったものだが、実際「大人」になってみると意外と判らないものだ。きっと「祖父と祖母」と「父と母」でも同じ事なのだろう。

「親の気持ち子知らず」なんて諺があるように、そもそも世代を越えた理解というのは難しいものだ。

もし、理想的な人間が居たとすれば、その人間は「老年」「壮年」「青年」「少年」、全ての世代の人の心を理解している人間なのではないかと思っている。

しかし、そんな人間はおいそれとは居ない。その代わり、人は家庭という場で三世代の人間がそろって初めて「真の人間」が完成するようなイメージを私は持っている。

そんな三位一体の家庭でこそ学べる大切な事の一つが「尊敬」なのではないかと、この家族を観ていて思ったのだ。

「子は親を写す鏡」とは良く言ったもので、「子供」は「親」の行動から人間としての行動規範を学ぶ。生活態度から人の接し方まで、全てが親から学んでいるのだろう。であれば、「父と母」が「祖父と祖母」にどうやって接しているのかを観ていれば、その中から自然と「目上に対する接し方」を学び、更には「尊敬」の概念も体得しうると思うのだ。

その尊敬の概念があってこそ、学校へ行けば先生を師と仰いで勉学に励み、社会へ出れば先輩、上司の指導にも耐えられると思うのだ。

昨今、学級崩壊という言葉が一般的になった背景には、教員の指導力不足や学校教育の不備がやり玉に上がるけれども、そもそも今までの日本人のコモンセンスたる「尊敬」の概念を今の子供達が持っていない事が何よりの問題なのではないかと思ったのだ。

世代的には私の親の世代、つまり団塊の世代から日本の核家族化が始まったのだと思う。その団塊の世代の子供達くらいから家庭内暴力や非行化の問題が顕著になり始めていたと思う。

私自身は前述のように核家族で育ったけれども、まだ私の頃は地域のコミュニティが濃厚に機能していた。近所の血の繋がらぬ家庭のお祖父さんやお婆さんが面倒を観てくれた事もあったし、親類の家へ挨拶周りへ行く事も多かった。だから、私の世代位までは三世代家族でなくとも、人の繋がりを学ぶ機会はあったと思うのだ。しかし、ここからそんな人の繋がりは徐々に無くなって行く。

そして現代。アパートの隣に誰が住んでいるかすら判らない程に地域社会が分断され、家庭内では「親と子」だけの関係しか無くなってしまった。「子」は「親」から「管理/支配」される事しか学ぶ事が出来ない。実の「祖父と祖母」も存在せず、それを代行出来る地域社会のコミュニティもない。そんな中で、子供はどうやって「目上に対してどう接するのか」を学ぶのだろうか?

「子」は「親が自分にした仕打ち」しか学ばない。「勉強しなさい。」「あれをしなさい。」「これをしなさい。」「これはやってはいけない。」とただただ指示ばかりされていた子供は、それこそが人間関係だと学んでしまう。そして、いざ自分が学校なり社会に出た時に、親から学んだ人間関係を周囲の人間に対して行使する。「あれをやれ」「これをやれ」と。当然、そんな事が社会で通用する筈が無い。

何をやっても自分の意思が通じない時、人が取り得る最後の行動はこの二つなのだろう。「引き蘢る」か「世界の破壊」である。

その結果が何をもたらすのかは、昨今のニュースを見ていれば触れる必要は無いかと思う。

かと言って、今更三世代家族に戻りましょうなどとはとても言えない。もはや、今の親の世代にもそれが出来る訳がない。何千年と続いて来た「家族の絆」は連綿と続く(実際には4世代も5世代もあっただろうが)三世代家族という流れの中で醸成され、受け継がれて来たものなのだ。聖火リレーのように、無限のとも言える世代の人々の手を経て、ほんの四半世紀前まで続いて来たのだ。

その灯火は、今消えようとしている。いや、消えてしまったと言ってもいいのかもしれない。もはや、火種は無いのだ。

この先、社会は間違いなく「無尊敬社会」となって行く。昔の日本を懐かしみ、その復活を願う事は叶わない。これからの日本を考えた時、この現実から目を反らす事は出来ないだろう。

今の日本はもはや形骸化した「尊敬というコモンセンス」を未だ前提として社会が成立している。それ故に、様々な問題が噴出し、その根本的問題が解決出来ないまま悲劇が繰り返される。

それを解決する為には、21世紀の日本という国体を健全な方向へ進む為にはそんな「無尊敬社会」を前提とした価値観と社会システムが必要なのかもしれない。
当然、そんな社会は今の我々の価値観からは痛ましい程に受け入れがたい筈なのだが。

考えようによっては、これは士農工商の階級社会が崩壊した明治維新に匹敵する社会的変革期なのかもしれない。

私自身、それがどんな社会なのかを想像して呆然としてしまう。それをここで書くのは助長となるので書かないが、機会があれが書いてみたいと思う。

ただ、これだけは言っておきたい。こんな「無尊敬社会」において、人間育成、人間教育を全て公的機関の「学校」に任せ、そして「愛国教育」などと耳障りの良い言葉で包んでしまった時に何が起こるのか?私には悲劇しか思い浮かばない。

今、自分は独身だけれども、いつか親になる時も来るかもしれない。その時、自分がどやって自分の子を人として育てられるのか。不安が先行するのは正直な所だ。
しかし、消えようとしている火種を自分が少しでも持っていると感じるが故に、この火種を自分の子供に授ける事が出来たらと願う。

その火種がこの先何世代まで続くのか判らないけれども。