神無き国のテロル

勝谷誠彦氏の言っていた事が現実に成り始めている。

表題の「神無き国のテロル」とはTBSストリームラジオの番組「コラムの花道」でコラムニストの勝谷誠彦氏が今回起きた秋葉原連続刺殺事件について語った時に使った言葉である。

氏によれば、中東でテロに走る連中は、社会的底辺に生きてる故に将来に夢も希望もない若者達が、英雄的死によって神が天国に召してくれるという言葉を信じて自爆テロを行うのだという。今回の秋葉原連続刺殺事件を氏はそんな社会的弱者による宗教的イデオロギーの無い日本で起こったテロだと表現したのだ。

最初、私はこの言葉に短絡的な拒絶反応を感じたのだが、よくよく考えてみると的をえた考えだと思ってしまった。

「テロ」と聞けば、普通は政治的、宗教的イデオロギーの対立から生まれると考えるのが普通だが、今の日本にはテロを起こす程の政治的、宗教的イデオロギー(まさにオウムはこれだった訳だが)殆ど存在しない。
だから「テロ」という言葉を使った途端、日本人にはそれはTVの向こう側の(実体験と伴わないという意味で)フィクションとしてしか認識出来ない。

だから、この手の事件が起きても社会的な一般認識は「何かしらの問題を抱えた一個人の暴走」という事になって、人々も直ぐに忘れてしまう。そして、次から次ぎえと事件が起きても人々はそれをTVの向こう側のフィクションとして、無視を決め込み、段々と麻痺してしまう。その凶行が自分に及ぶまでは...。

本人達に積極的にその意図があったのかどうか置いておいて、氏の言うように社会的弱者によるテロだと捉えた方が構図が簡単になるのではないか?そうやって明確な「形」を与えてやらなければ、国民全体でこの問題に対処する事は出来ないのではないか?

今回の秋葉原事件後、既にインターネットの掲示板には数件の模倣を臭わす書込みが現れ、警察が対応に苦慮している。これらの書込みの主は当然加藤容疑者とは一切の関わりを持たないにも関わらず、同じ「テロ」を実行しようとしている。組織無き連続テロ行為。これは歴史上稀に観る社会現象なのではないだろうか?

今はこの手の模倣犯がまだ数件程度だから良いものの、今後これらの模倣犯が指数関数的に増加した場合、これは日本社会そのものの存続の危機ですらある。

これらの流れをみて、私が思い浮かんだのは不謹慎ではあるがTVアニメ版の攻殻機動隊Stand Alone Complexで語られた「笑い男事件」そのものである。一人の人間の意思と行動を観た多数が、その人間と直接の接触を持たないにも関わらず、ネットを通して得た情報からその意思を受け継ぎ、似たような類似事件を繰り返す。

この関連性をもって「TVアニメが事件を助長した」など書き出すマスコミが現れるのではないかと少々危惧している。何せ「ダガーナイフはドラゴンクエストにも登場」などと平然と新聞に載るのが今の日本のメディアだ。

それはともかく、攻殻機動隊S.A.Cのシナリオライターの想像した未来の社会現象が現実に起こりつつあるのは事実のようだ。そんなフィクションが現実に起こるような世界が今の日本なのだ。しかし、人々はいつまでもそれをフィクションとして捉え、決して解決すべき現実とは捉えようとしない。

加藤容疑者の行為を否定する、肯定するなどと言ったレベルの低い話ではなく、何故加藤容疑者があの凶行に走らざる終えなかったのか?その根本的な原因をとことん突き詰めて行かない限り、この悲劇はまた繰り返される。大体、つい数ヶ月前も土浦で連続刺殺事件が起きたばかりだし、ここ10年程の類似事件は枚挙に暇がない。

彼らの行為を「神無き国のテロル」だとすれば、彼らの主張は何であったのか?それに耳を傾けるのが社会の責任なのではないか?「テロ」は愉快犯的な犯罪ではない。言論では通じず、その社会的存在を黙殺される人間が最後に取り得る手段である事をもっと理解すべきだ。「何かしらの問題を抱えた一個人」という認識を改めない限り、「個人の問題」というレッテルの元に永遠に社会から黙殺されてしまう。

彼らの「テロ行為」が一体何を訴えたかったのか?その部分を国民全体で理解し、その根本的解決策を国民全体で共有しない限り社会の安定は望めない。今回の事件の犠牲者の死を報いる為には、国民全員がこの問題に真正面から取り組む事こそが真の弔いになるのではないかと思う。

iPhone SDKに挑戦中

先日、Appleより遂にiPhone 3Gが発表された。

iPhoneが登場した時から何故GSM?と言われ続けただけに、このiPhone 3Gの登場を首を長くして待っていた人も多いと思う。

私は去年の7月頃、初代iPhoneが発売されてから2週間程度してから購入した。会社の同僚が発売日に並んで買ったiPhoneを見せびらかされているうちに、まんまと罠にハマって買ってしまったのだ。

私が買った時は$599だったものが2ヶ月程で$399まで値下がりして衝撃を受けたと言うのに、今度のiPhone 3Gの値段は8GBモデルで$199と言うではないかい。アーリーアダプタの宿命とは言え、この値下がり具合には軽い目眩が起きる。

ただ、逆に言えば$599でも買いたくなるような商品を$199と売るという事だから、購入者が一気に増えるのは容易に想像できる。

私はアメリカに暮らして早8年。日本の携帯事情には疎くなってしまったので、「日本の携帯電話と比べて」iPhoneがどれだけ良いのかは説明出来ないが、iPhone自体はどれだけ良いかは十分知っている。

iPhoneが手放せなくなったのは事実だ。元々iPodを使っていたので、iPod代わりという意味でも手放せない。メールやIMは元々あまり使わないけれども、GoogleMapやSafariによりWebチェックは頻繁に使っている。

iPhoneでWebサーフィンってのは無理があるが、出先でどうしてもWebで調べものがしたい時には抜群の働きをしてくれる。Note PCなんて持ち歩く意味がない。

しかし、日本のiPhoneに対する反応を観ていると、未だにこのiPhoneの本当の凄さを理解してないんだなと思う事がある。

某社が新型スマートフォンを発表して、iPhoneなど恐るに足らないなど息巻いてるのを観ていると、やはり日本は未だに物作りの幻影に惑わされていのだなと思う。

一般ユーザーにはiPhoneはクールな携帯電話にしか見えないかもしれないが、それはまさに氷山の一角でしかない。

iPhoneの真の価値はその裏側を支えるテクノロジーとストラテジーにあると言って良い。

確かに「モノとしての端末」であれば、iPhoneを凌ぐ製品は他社でも作れると思う。もっと広大な画面を乗せたり、もっと高性能なカメラを内蔵したり、いくらでもやりようはあると思う。実際、中国では大量のiPhoneモドキ製造されている。

しかし、そんな「モノ」には意味は無いのだ。

今日、この手のハイテクガジェットを作るコストは年々低下していき、「モノ」を作る事は全く商売に成らない時代になってきている。

昔、日本の工業製品が世界中を席巻した時代は「モノ」の時代であった。「良いモノ」こそが価値を持ち、人々はそれに対して対価を支払った。だから、「良いモノ」作りに日本企業は邁進した。世界中、どこの国でも日本製品を越える品質の「モノ」が作れない時代はそれで良かった。

しかし、今は違う。日本が誇った精密実装技術も、電子部品の殆どがSystem on chipとなってしまった現代では中国でも台湾でも似たようなモノがさしたる苦労も無く出来てしまう。

何故一世を風靡したウォークマンiPodに負けたのか?その理由の一つは昔はウォークマンに使われた精密機械は日本でしか出来なかったが、iPodに使われているような半導体部品で構成されては日本以外、どこの国でも作れるのだ。

Mac Book Airが発売され、それを日本の技術者が分解した記事が日経エレクトロニクスに載った事があった。その時の日本のエンジニアの反応はおしなべて

「大した技術は使っていない。日本の技術で作ればもっと薄く作れた。」

というものであった。逆に言えば、日本の技術など使わなくても、一世を風靡するような製品が作れる時代になっている訳だ。

そう、もうコンピュータエレクトロニクスが商品価値を持つ時代は終わっているのだ。

翻ってiPhoneだが、こちらも最初こそ$599なんて強気な値段だったが、今度のiPhone 3Gにおいては$199である。iPhoneというハードウェアを売るだけが儲かるビジネスではない。

Appleの儲けはiPhoneを売る事から得るのではない。iPhoneを売るのはその始まりに過ぎない。

一般ユーザーがiPhoneを使うことによって、Appleは携帯電話会社から通話料の数%をインセンティブとして得ているとの話がある。

また、iPhoneにはiTunes Music Storeにアクセス出来るので、ユーザーがiPhone経由で購入した音楽の収益も入って来る。

そして、今回のiPhone 3Gより一般ユーザーが販売したアプリケーションの売り上げの30%をAppleは受け取る事が出来る。

iPhoneとは、Appleにとってはサービスの入り口に過ぎないのだ。先ほど氷山の一角と言ったが、その裏に潜む可能性は某社が発売した新型スマートフォンとは訳が違う訳だ。

iPhoneとは携帯電話の格好をした、次世代プラットフォームなのだ。

このプラットフォーム上ではユーザーのアプリケーションが動き、新しいサービスがどんどん展開されている。今のPCとほぼ同じ働きをこれからiPhoneは担っていると思う。

いくら素晴らしい端末を開発しても、そんな懐の深さを日本企業が実現するのは難しい。

そんな訳で、今はiPhoneSDKに興味もって先日からドキュメントなどを読んでいるのだが、その充実ぶりには本当に圧倒される。

詳細な解説書に何十本もの解説ビデオ。iPhone SDKを順序立てて学ぶ為のビギナー向けの資料もある。AppleiPhoneの一般向け開発環境を整えるのに丸々1年を費やした事を思い知らされる。

これだけでも、Appleが単なるハードウェアとしてiPhoneを売る事が主眼でない事がわかる。クールなハードウェアを出して、それに飛びつくユーザーからの上がりで収益を上げるつもりならば、1年もの時間をかけて一般ユーザー向けの開発環境をここまで充実させる意味はない。

この先、多くの開発者がiPhoneをプラットフォームとして活用してくれる事を考えての戦略の現れだ。それだけ、AppleiPhoneを手厚く育ていく意思があるという事だ。

iPhoneのプログラミングを学ぶ事が、一過性のブームではなく、今後数年〜5年は続く貴重なスキルになると私は思っている。それで、今からiPhone SDKの勉強を始める気になったのだ。

可能な限りがんばってみたいと思う。

無尊敬社会の到来

最近、私の周りに子供を授かった友人夫婦が多い。

多分にそういう時期なのだろう。去年から今年にかけて子供を授かった知人、友人夫婦が5、6組程は居ると思う。この歳になっても独身な私の方がそもそも自然の流れから言えば不自然なのかもしれないが。

先日、そんな家庭にお邪魔する機会があった。歳は私よりも多少若い程度の夫婦で、初めてのお子さんだ。同居ではないのだが、母方の両親が良く遊びに来ているので雰囲気としては3世代家族の様相を呈している。

そこの家庭の子供は1歳とちょっと過ぎた男の子。もう自分で歩けるようになっていて、そっちへ歩いては何かを掴み、あっちへ進んでは放り投げると言った具合。元気な事この上無い。

お祖父さんにもすっかり懐いてるので、お祖父さんに抱っこされ、お父さんが隣から覗き込んでいる姿が微笑ましい。

ここの夫婦は母方の両親と父親との仲(義理の父と義理の息子)が良いので、義理の父親が子供をあやしている時も、義理の息子の友人は黙って微笑みながら見守っている。その姿を観ていると、昔の日本の家庭の原点を観たような気になって、私はふと思索に入り込んでしまった。

日本の家庭が核家族になって久しい。自分自身も極々普通の核家族という環境で育ったものの、私は常々三世代家族こそがもっとも合理的だと考えている。

「祖父と祖母」「父と母」「息子と娘」

この3つが家庭という場で一つになってこそ、家庭は安定し、人間育成が醸成すると思っているのだ。三位一体である。(キリスト教の三位一体の定義は違うようだけれども)

「大人は子供の気持ちが判らない」と言うが、その「大人」も昔は「子供」だったのだ。なのに何故「大人」は「子供」の気持ちが判らないのか?私も自分が「子供」の頃は自分が「大人」になっても「子供」の気持ちがわかるようになりたいと願ったものだが、実際「大人」になってみると意外と判らないものだ。きっと「祖父と祖母」と「父と母」でも同じ事なのだろう。

「親の気持ち子知らず」なんて諺があるように、そもそも世代を越えた理解というのは難しいものだ。

もし、理想的な人間が居たとすれば、その人間は「老年」「壮年」「青年」「少年」、全ての世代の人の心を理解している人間なのではないかと思っている。

しかし、そんな人間はおいそれとは居ない。その代わり、人は家庭という場で三世代の人間がそろって初めて「真の人間」が完成するようなイメージを私は持っている。

そんな三位一体の家庭でこそ学べる大切な事の一つが「尊敬」なのではないかと、この家族を観ていて思ったのだ。

「子は親を写す鏡」とは良く言ったもので、「子供」は「親」の行動から人間としての行動規範を学ぶ。生活態度から人の接し方まで、全てが親から学んでいるのだろう。であれば、「父と母」が「祖父と祖母」にどうやって接しているのかを観ていれば、その中から自然と「目上に対する接し方」を学び、更には「尊敬」の概念も体得しうると思うのだ。

その尊敬の概念があってこそ、学校へ行けば先生を師と仰いで勉学に励み、社会へ出れば先輩、上司の指導にも耐えられると思うのだ。

昨今、学級崩壊という言葉が一般的になった背景には、教員の指導力不足や学校教育の不備がやり玉に上がるけれども、そもそも今までの日本人のコモンセンスたる「尊敬」の概念を今の子供達が持っていない事が何よりの問題なのではないかと思ったのだ。

世代的には私の親の世代、つまり団塊の世代から日本の核家族化が始まったのだと思う。その団塊の世代の子供達くらいから家庭内暴力や非行化の問題が顕著になり始めていたと思う。

私自身は前述のように核家族で育ったけれども、まだ私の頃は地域のコミュニティが濃厚に機能していた。近所の血の繋がらぬ家庭のお祖父さんやお婆さんが面倒を観てくれた事もあったし、親類の家へ挨拶周りへ行く事も多かった。だから、私の世代位までは三世代家族でなくとも、人の繋がりを学ぶ機会はあったと思うのだ。しかし、ここからそんな人の繋がりは徐々に無くなって行く。

そして現代。アパートの隣に誰が住んでいるかすら判らない程に地域社会が分断され、家庭内では「親と子」だけの関係しか無くなってしまった。「子」は「親」から「管理/支配」される事しか学ぶ事が出来ない。実の「祖父と祖母」も存在せず、それを代行出来る地域社会のコミュニティもない。そんな中で、子供はどうやって「目上に対してどう接するのか」を学ぶのだろうか?

「子」は「親が自分にした仕打ち」しか学ばない。「勉強しなさい。」「あれをしなさい。」「これをしなさい。」「これはやってはいけない。」とただただ指示ばかりされていた子供は、それこそが人間関係だと学んでしまう。そして、いざ自分が学校なり社会に出た時に、親から学んだ人間関係を周囲の人間に対して行使する。「あれをやれ」「これをやれ」と。当然、そんな事が社会で通用する筈が無い。

何をやっても自分の意思が通じない時、人が取り得る最後の行動はこの二つなのだろう。「引き蘢る」か「世界の破壊」である。

その結果が何をもたらすのかは、昨今のニュースを見ていれば触れる必要は無いかと思う。

かと言って、今更三世代家族に戻りましょうなどとはとても言えない。もはや、今の親の世代にもそれが出来る訳がない。何千年と続いて来た「家族の絆」は連綿と続く(実際には4世代も5世代もあっただろうが)三世代家族という流れの中で醸成され、受け継がれて来たものなのだ。聖火リレーのように、無限のとも言える世代の人々の手を経て、ほんの四半世紀前まで続いて来たのだ。

その灯火は、今消えようとしている。いや、消えてしまったと言ってもいいのかもしれない。もはや、火種は無いのだ。

この先、社会は間違いなく「無尊敬社会」となって行く。昔の日本を懐かしみ、その復活を願う事は叶わない。これからの日本を考えた時、この現実から目を反らす事は出来ないだろう。

今の日本はもはや形骸化した「尊敬というコモンセンス」を未だ前提として社会が成立している。それ故に、様々な問題が噴出し、その根本的問題が解決出来ないまま悲劇が繰り返される。

それを解決する為には、21世紀の日本という国体を健全な方向へ進む為にはそんな「無尊敬社会」を前提とした価値観と社会システムが必要なのかもしれない。
当然、そんな社会は今の我々の価値観からは痛ましい程に受け入れがたい筈なのだが。

考えようによっては、これは士農工商の階級社会が崩壊した明治維新に匹敵する社会的変革期なのかもしれない。

私自身、それがどんな社会なのかを想像して呆然としてしまう。それをここで書くのは助長となるので書かないが、機会があれが書いてみたいと思う。

ただ、これだけは言っておきたい。こんな「無尊敬社会」において、人間育成、人間教育を全て公的機関の「学校」に任せ、そして「愛国教育」などと耳障りの良い言葉で包んでしまった時に何が起こるのか?私には悲劇しか思い浮かばない。

今、自分は独身だけれども、いつか親になる時も来るかもしれない。その時、自分がどやって自分の子を人として育てられるのか。不安が先行するのは正直な所だ。
しかし、消えようとしている火種を自分が少しでも持っていると感じるが故に、この火種を自分の子供に授ける事が出来たらと願う。

その火種がこの先何世代まで続くのか判らないけれども。

「間違える事」について

人間、「間違えないように、間違えないように」と思っていると、ついつい間違えてしまう事がある。

私は常々「何故人は間違えるのか?」について考えていたのだけれど、その答えにある日気がついた。

「人は間違えることがある。」のでは無く「人は間違えるように出来ている。」

のである。これは言葉のレトリックや比喩ではなく、生物学的にそういう仕組みに出来てるのではないかと思う。

人間、同じような反復作業をしていると、どこかでついつい間違えてしまう。これには誰でも経験があると思う。
同じ言葉を何十回も言っていると、どこかで言葉が入れ替わったり、間違えたりしてしまう。

何故そうなのか?私は専門家では無いから理論的な説明は出来ないけれども、想像する事は出来る。

同じ作業を繰り返していると、同じ伝達神経を酷使する事になる訳だから、神経が疲労してしまうに違いない。
その疲労がある閾値を超えると、同じ作業が出来なくなる。

確かに、人間は鍛える事によってそんな反復作業も難なくこなせるようになるが、それはその神経系が鍛えられて疲労しづらくなるからだろう。
それは「疲労しずらく」なるだけであって「疲労しなくなる」訳ではない。だから、間違えが起こる確率が減るだけであって、どんなに鍛えても間違えは起こるのだ。

「猿も木から落ちる」という諺があるように、昔から人間は経験的にそんな現象を知ってるのだ。

また、この手の間違いには神経系の「1/f揺らぎ」が大きく関わっていると思われるのだけれども、その辺りは妄想の域なのでここでは触れない事にしておく。

さて、そんな「人は間違えるように出来ている」ことを肯定すると、いろいろと見えてくる事がある。

「失敗は発明の母」なる言葉があるように、人類は失敗を通じて多くのことを発明、発見して進歩してきた生き物である。

発明、発見の歴史にこの手の例は枚挙に暇が無い。
近年でその良い例が2002年のノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏だと思う。氏はタンパク質の質量分析に使う試薬を間違えて調合してしまったのだが、偶然にもその結果が一大発見を生み、そしてノーベル化学賞まで受賞することとなる。

もし、人が間違わずに同じ作業を延々と繰り返していたら、そこに進歩も発見も生まれなかったのではないかと思う。ある日、何かの偶然で「間違えた」時に、新しい発見が生まれる。

もっとミクロな、DNAレベルでも同じ事が言える。DNAの突然変異とはDNAを複製する際の「間違い」になる訳だけれども、この「間違い」によって生物は時に飛躍的な進化を得る事が出来る。
突然変異の大部分は生命には有害である可能性が高いのだけれども、何千、何百、何億という突然変異の1つでも良い結果になるのであれば、それは「間違い」ではなく「正しい」ことになる。

この場合のDNAの「複製の間違い」は「間違い」と捉えるよりも、むしろ積極的に「間違える」事を前提としたシステムと思えるのだ。もし、DNAの複製に「間違い」が発生しなかったとすると、生命はその誕生した瞬間の姿のまま永遠に変容する事はなかったはずである。生命としての人間の根源からして「間違い」を肯定したシステムであるのだから、人間が「間違えない」ようにする事がどれだけこの宇宙の真理から外れた事か分かって頂けると思う。

「間違える事」は決して悪い事ではない。むしろ「間違える事」は必然的に起こる事であって、それを止める事は出来ない。
だから私は「間違える事」を防ぐ事よりも、「間違えた事」をどうやってフォローするのかについて考える方が余程建設的だと思う。

しかし、こういう考え方は日本では一般的ではないのは十分承知している。日本では精神力をもって「間違えないようにする」事が正しいと信じられている。

会社で何かの間違いが起これば、それは起した人間の自己責任という事になる。間違いが許されないから、社員は日々耐え難いプレッシャーの中を過ごして行かねばならない。
人間は「間違いえる」ように出来ているのに、それを「間違えない」ようにする訳だから、そこに無理が生じて、人が歪む。組織が歪む。社会が歪む。

だから、「再チャレンジ支援制度」という物が出来たときに私は多少の感銘を受けたのだが、それがその後本当に機能したのかどうか気になってしまう。

日本の大学受験も「間違える事」を許されない良い例だ。日本の大学受験はほとんどの場合年に1回しかない。この年に一度のプレッシャーがどれ程のものか。殆どの人間は体験していると思う。
体調を病む者も居れば、精神に不調を来たす者も居る。已む終えない事情で当日受験できない人間も居る。この1日を「間違いなく」過ごせなかったが故に、どれ程の才能がその将来を閉ざされたかと思うと忍びない。

その辺、アメリカの受験システムは寛容に出来ている。大雑把な説明ではあるけれども、アメリカの大学受験はSATと呼ばれる共通試験の結果が参考にされるのだけれども、それは年に7回もある。その7回のうちでもっとも良い結果を提出すればよい。
1回2回間違えても、チャンスはあるのだ。それが受験生の心の余裕を生み、実力を最大限発揮できるチャンスを与えているのではないか。

今の日本の受験システムを変えるだけでも、日本の将来に明るい未来の可能性が開けると思うのだけれども、きっとそれは叶わぬ願いなのだろう。

何故ならば、そんな受験システムを作る側がそのシステムの肯定によって現在の地位を得た人々だろうし、世間一般の人々も人生に1度だけしか通らない受験という現実に、誰が本気になって再び異を唱えよう。
そして何より、その受験という現実に立ち向かう若者達に、受験システムを変更するだけの地位も権利も持ち合わせては居ない。

多少話がそれてしまったけれども、要は「間違えない事」を許容されない社会は柔軟性も成長も失ってしまう可能性があるという事だ。「間違える事」を許容する事こそが、この世の理だと私は思うのだ。

生命におけるDNAの進化も、発明も、そして人生においても「間違える」事によって新しい地平が生まれるのだ。

だから、「間違える事」を恐れず、「間違えても」それを受け流せるような心を持ちたいと思う今日この頃である。

OLPCのWifi設定(始めの一歩)

自分用のメモ。OLPCでやっとwicdの起動に成功

/etc/netowrk/interfacesに以下の一文を追加

auto eth1
iface eth1 inet dhcp

ここで、パッケージマネージャでwicdをインストールさせたら、wicdがやっと立ち上がる。前回までは起動すらしなかったのだけれども、interfacesに定義が無かったからなのね。

しかし、今度はwicdで接続が出来ない...一歩進んだからいいか。

政治2.0

アメリカの民主党の大統領候補が本日決定した。当初の予想を大きく裏切り、初の黒人大統領候補であるオバマ氏である。福井県小浜市の応援が効いたのだろうか。もっとも、まだ「候補」であって、大統領が決まった訳ではないのだけれど。

今回の大統領選挙で注目すべきはやはりインターネットの活用だと思う。前回の2004年の時の選挙に比べれたインターネットの普及は加速度的に進んでいる上に、今回はYoutubeなどのビデオメディアが多いに活躍していた。何より、ネットに馴染んだ層が選挙権を持ち始めたというのが大きいと思う。

そんな彼らがソーシャルネットワークを代表とするインターネット上でのコミュニティの力でじわじわとオバマ氏支持のムーブメントを育て、そしてサイトを通じて献金を集めて、最後には豊富な資金を誇った筈のヒラリー氏を財政面でも凌駕したのは、これからの新しい時代の幕開けさえ感じてしまう。

また、今回の大統領選挙で印象的だったのがYoutubeの活用。大統領候補に対して、直接一般市民がYoutubeを通じて公開質問をし、TV番組でそれに答えるといった事をしていた。

私には古代ギリシャの全体民主主義の復権のように思えてしまった。選挙期間中にはホームページを変更するのは公職選挙法違反だと言ってインターネットを利用させないどこぞの国とは大違いだ。

本来、インターネット程政治をアクセラレートさせる手段は無い筈なのに。

日本に目を向けた場合、民主主義の根幹である民意の反映は代議士の選出によって行われる。国民は自分の信頼に足る人間を選出し、代議士に政治的発言をアウトソースする訳だ。

古代ギリシャ都市国家ならともかく、議会制民主主義が始まった1890年(明治23年)当時の日本ですら、その人口で全ての人間の民意を集めるのは当然非現実的であった訳で、代議士という形でその民意を集約するしか無かった訳だ。その意味では代議士の選出というのは、民意の量子化、ベクトル化であるとも言える。

また、日本の政体が議会制民主主義へ移った当時は、代議士として選ばれる人間と市井の人間との間には教育レベルに大きな開きがあったと思う。民主主義の建前として、(条件を満たせば)誰でも代議士として立候補は出来るけれども、実際に議員として十分に活動出来る見識と知性を持つ人間はどうしたって人数が限られる。

民意を伝える情報技術の不足と、代議士の素質を持った人間というリソースの不足。この背景で民主主義を実現するための現実解が現在の議会制民主主義であると私は考えている。

そこにありきたりな表現だけれども政治2.0の本質があると思っている。インターネットの普及と普通教育の一般化で、上で述べた条件「民意を伝える情報技術」も「代議士の素質を持った人間」も現代では十分クリアされている。それなら、今の政治システムも変えるべきじゃないのか?

組織やシステムは「ある問題」を解決する為に作られ、機能していくけれども、「ある問題」を解決する事を命題としている以上、最終的には「ある問題」を解決してしまって自分自身の存在価値が無くなる宿命を背負っている。

ところが、大抵の場合は組織やシステムはある一定の成果を上げたあたりから、「自分自身の存続」の為に活動を始めるようになる。道路公団など、当初は国内に十分な道路を整備する事を目的に設立されたのに、いつの間にか道路公団が存在し続ける為に道路を無理にでも作るようになってしまっている。

今の日本の政治もそれに近い状態になっているように思えて仕方がない。議員達は日本の為に、国民の為と活動をしているように声高に叫ぶけれども、実際には自分たちの党や議席の確保が最優先で行動しているようにしか見えない。また、その議員達も十分な教育を受けた人間とも限らず、その才覚においては市井の人間と大差がないと思える人物もちらほらと見受けられる。

本当に今の政治システムのままで日本の政治は務まるのか?既に今の政治の前提条件が変わって来ている以上、政治システムそのものを変える時期なのではないかと思えるのだ。

そこで、私は現代にマッチした政治2.0を妄想してみた。

政治のインターネット活用と言えば、ネット経由の投票なんて話が出るのが関の山だけれども、私はそんなものはもう必要ないと思う。先ほど書いたように代議士とは民意を国会の場に伝える為の代表に過ぎない。と言う事は、民意が直接集計できれば代議士は必要ない訳だ。

ここまでインターネットが普及し、ほぼ成人の殆どがPCなり携帯電話なりを持った現代において、民意を集計することは技術的には可能なはずだ。極端な事を言えば、ある法案の正否について、国民全員がYes/Noで瞬時に投票出来るシステムができあがれば、国会議員が無駄に何十時間も何日も議論する必要もない。大体、国会で議員達が1日議論と称して居座るだけで、どれ程の人件費が必要になるのか考えたくもない。

こんな事を書くと、大抵の場合は「そんな事では衆愚政治になってしまう。」と反論されそうだけれども、Web2.0の世界ではそれは杞憂のようだ。

最近読んだ梅田望夫氏の「ウェブ進化論」に非常に面白い話が載っていた。

氏の本によれば「アイオワ電子市場」というものがあるらしい。この市場ではお金や物のやり取りをするのではなく(一部ではお金が動いてるとの説明もあるけれど)、何かの未来の結果を予想して、それをポイントを使ってやり取りするらしい。その仮想的な市場原理によって、驚くべき結果が出ているらしい。実際にあの大接戦だった2004年のケリーvsブッシュの大統領選挙の結果もビタリと当たったらしい。

ここで重要になるのは、この結果を出した原理こそが、Web2.0を語る上で重要なキーワードである「集合知」という事である。

人間一人一人の考えや判断があまりあてにならないのは誰もが経験的に知っている。ところが、そのあてにならない筈の人間に政治を任せているのが今の政治システムである。

ところが、人間一人一人の考えや判断はまちまちだけれども、何千、何万、何百万もの人間の判断を集計すると、結果的に正しい判断が出る。これこそが集合知の最たるものだと私は思っている。

人間、判断を間違えるのは大抵正しい情報を得ていなかったり、個人の主観に左右されてしまうからだ。だから、個人の判断の精度は低い。ところが、何千、何百もの人間が居れば、その中には正しい情報の断片を持っている人間が居る。それらを集計すると、結果的には正しい情報が得られるのだ。

判り易い例えで言えば「群盲象を撫でる」という言葉がぴったりである。盲人が象を撫でると、個々の人間がてんでんばらばらな事を言うという悪い例えだけれども、Web2.0的に考えれば、その盲人達の意見をまとめる事が出来れば盲人でも正しい象の形にたどり着ける事を意味しているのだ。

本当に国民全体からの意見を集める事が出来れば、そこにはどんなに知性を磨いた一個人が居たとしても決して敵う事の出来ない「集合知」が生まれるのだ。その集合知をもって政治を行えば、決して間違った方向へは進まないだろう。

もしもこのシステムが本当に実現したら、国会議員は不要になり、選挙活動も不要になり、賄賂も買収も公職選挙法すら不要になって、全くもって万々歳じゃないかと思う。それどころか、国会すら不要になる。国会議事堂を潰して、そこに強固なサーバールームでも建設した方が遥かに良いのではないかと思う。

まぁ、そこまでは行き過ぎだとは思うのだけれども、手始めに、今の政治システムにWeb2.0的システムを組入れるアイディアが一つある。

それは「バーチャル国会議員」である。

一人の国会議員を選挙で国会に送り込む。しかし、彼の発言や考えはWeb2.0集合知の結果を述べるのである。選ばれた本人には少々不憫な気もするけれども、今の政治システムを2.0化するにはそれ以外に方法がないのではないかと思う。

国会議員選挙へ出るなんて、普通の人は怖じけず居てしまうし、その素養もない。

ところが、選挙活動はネットの数多の人々によって保障され、その議論、発言はネットの集合知を背景にすれば、これはほとんどどんな人間でも立派な国会議員の役を果たす事が出来るのではないだろうか。

もし、こんなバーチャル国会議員が今の衆院参院を占める事ができれば、先ほど書いた真のWeb2.0的政治、政治2.0を実現する為の法案を通す事も夢ではなくなる。

国民一人一人が真に幸せになれる政治システムが人類史上初めて実現出来るのかもしれない。

もう、TVの前で政治家に届く筈のない愚痴を言う必要はない。あなたは自分の率直な意見を直接民意に反映出来る。

景気が悪くなった?もし、あなたに景気回復のアイディアがあれば、それをバーチャル国会議員を通して国会に提出出来る。

生活が苦しくなった?他に生活が苦しくなった人が大勢増えているのではあれば、それは直ぐに民意に反映されて救済案が迅速に可決される。

これからの21世紀は間違いなく激動の時代になる筈だ。そんな時代を日本として生き残って行く為には意思決定の正確性、迅速性が求められる。政治のIT化、政治2.0こそがその答えになるのではないか...と妄想してみた今日の日記。

夢の機械

もしも、ドラえもんからどんな道具が欲しいか?と聞かれたら、私は「寝ている時の夢を録画する装置」が欲しいと答える。そんな道具がドラえもん本編に出て来るのかは知らないけど。

どうも自分はリアルな夢を観る事が多い。いや、それが普通と言っても良い。リアルというのは現実的という意味ではなく、鮮明なビジュアルを伴っているという意味で。

不思議なのは、これが現実に知っている場所の景色がリアルに再現されているというのならばまだ理解出来るのだが、全く観た事も無い景色が細部に至るまで再現されていたりするから余計に気になる。

また、その全く観た事が無い景色自体が、非現実的な景色だったりするから始末に負えない。地下数千メールへ続くトンネルへ下りて行く夢や、現実に存在しないテーマパークやら、地上数百メートルにもおよぶタワーの夢などを観た覚えがあるが、細部に至るまでそのディティールを覚えている。

また、ある一時期、私は自分の夢をコントロールする事が出来た。今思えばそれは夢を観ていたのか、単なる妄想だったのか判らないけれども、自分が観たい夢を観ていた。一週間連続で連続ドラマ形式の夢を見た事もあった。

これで私に絵心があればイラストにでも出来るのだけれども、そんな才能は微塵も無い。だから、私は「夢の録画装置」が子供の頃から欲しくて仕方が無いのだ。そんな装置が出来れば、自分による、自分の為の、自分だけの映画が作れるんじゃないかと本気で思ったものだ。

そんな訳で、私は「夢」という現象について非常に強い興味を持っている。

現代科学でも、まだ「夢」についてはまだあまり判っていないらしい。記憶の整理や忘却に関係あるらしいという程度は判っているらしいけれども、何故人は夢を見るのか?そして、その機能的なメカニズムや意味についてはまだ推測の域を出ていない。

私は学生時代にロボット、特に人工生命や人工知能寄りのロボットについて強い興味を抱いていたので、何故人は夢を見るのかについて色々と妄想していた。

全く根拠のない私の妄想では、「夢」はある種のシミュレーションなのではないかと思っている。

今、コンピューター上で実現されている人工知能というのは、人間の思考パターンを論理化して、論理演算によって人間の知性を再現しようとしている。私はこれには常々疑問があった。

例えば、目の前に箱があったとする。この箱をどうやって開けるのか?それを古典的な人工知能的なアプローチで解こうとすると、空間を認識して、箱をモデル化し、そのモデルを更に分解して論理記号し、それを論理演算によって解こうとする。

でも、人間が箱を開けたりするのに、そんな論理演算を行ってる訳ないですよね。

それじゃ普通、人はどうやってそんな問題を解こうとするかと言えば、イメージで解くんじゃないかと思うんですね。

脳内のバーチャル空間にその箱を思い浮かべて、自分の経験則に基づいて、その箱のどこを押したり、引いたり、引っ掛けたりすれば箱が開くのかをシミュレートしてから、実際に行動を起こすと思うんですね。

つまり、人間は頭の中に物理シミュレーション空間を持っていて、その中で意識的にしろ無意識的にしろシミュレーションを行う事が「思考」なんだと思うんです。

実際、人間が観ている風景のほとんどは網膜には映っていないという話があります。人間の目が光学的に見ている範囲というのは非常に狭いしかなくて、実際に人が「観ている」と認識している空間の殆どは脳内で再現された映像に過ぎないという事ですね。

その一例がこのページの錯覚。

http://web.mit.edu/persci/people/adelson/checkershadow_illusion.html

「升目Aと升目Bは同じ明るさ」です。さて、どれだけの人がこの事実を受け入れる事が出来るでしょうね。私もこの錯覚には腰を抜かす程の衝撃を受けました。

つまり、人間が観ている景色なんてのも、その人の脳の認識や思い込みで変わってしまうって事なんですね。実はこれって「幽霊が見える人」と深い関係があるような気がするんですが、今回の話題とは関係ないので飛ばします。

どっかで聞いた話なんですが、最近の研究では人間が意識して観ている景色と幻覚の間にはそれ程違いは無いなんて事を聞いたのだけれど、個人的には納得ですね。

人間の意識ってのは、実は脳内のシミュレーション環境の中に存在しているものなんじゃ無いかって話ですね。

そこで夢の話に戻るんですが、前日の「捨てる事について」というエントリーとも絡むんですが、人間の頭の中には意識、無意識に関わらず、いろんな思考や思念が並列に存在していると仮定します。

日常、起きている時間は意識が脳内シミュレーション環境を使っているけれども、夜、寝ている時は意識の活動が低くなって、無意識の思考や思念が活動を始めるんじゃないかと思うんですね。

そんな無意識の思考や思念が脳内シミュレータを使ってる最中に観るのが「夢」なんじゃないかと思うんですね。

そのシミュレーション結果によって、不要な思考や思念は忘却され、必要と思われた物が記憶に残る。

例えて言えば、昼間は人間がPCを操っていて、PCが何をしているかは人間が知っているけれども、夜になってバックグランド処理が動きだして、HDDのデフラグやウィルスチェックが実行されるようなもんですかね。

これも私の妄想なんですが、人間が日頃「意識」や「自我」なんて呼んでいるものは脳のシステムの中では単なる記憶の連続性を保障する為のサブシステムみたいなもんじゃないかと思っているんですが、この話も時間があれば書いてみたいですね。

もし、この脳内シミュレーション環境を外部から刺激する事が出来たら、それこそ本当にMatrixの世界が現実となる筈なんですけどね。Boom Townでも良いですけど。パプリカでもいいか。

そんな夢の機械は何時になった登場するんでしょうね。登場したらしたで恐ろしい気もしますけど。