「捨てる事」について

最近、「捨てる事」についてよく考える。

事の発端は私の尊敬するエンジニアであるT氏の発言。T氏がとある家庭内の収納技術の本で、目から鱗のだった一文を私に紹介してくれた。要約すれば、

「何故家には無駄な物、ゴミが次々に増えて行くのか?それはそれらが悪い”気”を発しているから、次々にゴミを引き寄せるのだ。無駄な物やゴミを処分しない限り、家は片付かない。」

一見すると非科学的かつ意味不明な説明にも思えるけれども、経験的には私もこの一文には同意してしまった。

部屋が片付かないのは、収納スペースが足らないから。収納スペースが足らないのは、物が多いから。だったら物を減らす以外に部屋を片付ける決定的な手段は無い訳だ。

また、人間多くの物を持っていると、一つ、二つ増えても物が増えた気にはならない。でも、持っている物が少ないと、一つ、二つ増えると気になるのではないだろうか。1個が2個になると50%増しだけど、100個が101個になるとたったの1%増しだ。

それに触発されて、私の家の中の物を大分片付けてしまった。古いPCパーツやプリンタなど、「使うかもしれない」と思っていた代物も、この際だと思って一気に捨ててしまった。

読んでない本も、読んでないって事はこの先も読まないだろうと決意して、捨ててしまった。

こんな事を繰り返していくと、いつの間にか物を捨てるのが楽しくなってきて、「次は何を捨てようか?」を積極的になってくる自分に気付いて笑ってしまった。

「捨てる」って事は部屋も奇麗になるし、自分も楽しくなるし、こんなに素晴らしい事はないじゃないかと。

そんな勢いで、今では36inchのTVも売っぱらってしまい、長年使ったPCも売っぱらい、iMacを買って不要になったMac mini(何かに使えないかと思っていたのだけれども)売っぱらい、大分部屋の中の見通しが良くなって来た。使うか使わないか判らない物は処分してしまうのが良いのだ。

次に気になったのが衣服。元々服装に関してずぼらな私は古い服をいつまでも着続けていたのだが、これも良くないと悟った。

部屋のタンスやクローゼットには古い服でぎっしりなので、新しい服を買うのをなんとなく躊躇していた。でも、古い服は常に捨て、常に新しい服を補充しない限り、少なくとも人前に出て恥ずかしくない格好は出来ない。

そこで、思い切って古いシャツやズボンを一気に処分してしまった。クローゼットやタンスが開いたので、新しい服を安心して買いに行ける。

さて、こうやって目に見える「物」を処分していった私だけれども、その後様々な本など読むうちに、実は「捨てる」というのはこの宇宙の真理であるように思えて来た。

生命がなぜ生命たりえるのか?いきなり哲学的な命題になってしまったけれども、それは物質の新陳代謝が大きな意味を持っている。生命は常に外部からエネルギーを取り入れると共に、内部の不要な物を排出する事によって生きる事が出来る。

機械論的な生命観で言えば、外部から取り入れるエネルギーは燃料で、燃えカスが排出されるというイメージが思い浮かぶけれども、実際はそうではない。

実際には外部から取り入れた物資は、生命を構成する分子一つ一つと入れ替わり、入れ替わった古い分子が排出される。つまり、エンジンそのものが常に入れ替わっている訳だ。

生命の本質は物質の新陳代謝の流れの表現形であって、物質そのものにはない。例えて言えば、川が川でありえるのは、水が流れているからであって、水が止まってはそれは川ではない。人間は「川」を物理的存在のように思っているけれども、実は「川」とは「水の流れ」という現象に対する名称なのだ。

この辺りの事はベストセラーにもなった「生物と無生物の間」に詳しい。

会社組織もそうだ。いつまでも同じ人間がトップに居座っているような会社は遅かれ早かれ身動きが取れなくなって倒産してしまう。社内の人事が常に流れているような組織でなければ柔軟性のある組織は維持出来ない。古い人間には残念ながら去った頂かなくては組織は持たないのだ。これも古い役員を「捨てる」事が重要になってくる。

実はこれって仏教で言う所の「色即是空」に他ならないと思えるのだけれども、その事はまた追々書こうかと思っている。

つまり、これだけ「捨てる」という事は重要な事なのだ。

そして、私は更に「捨てる」べき物に気がついた。それは「想い」や「考え」なのではないだろうかと。

私は元々不必要に考え込んだり、余計な事を心配したり、無駄な事を空想したりする癖があるのだけれど、今まではそれを別段悪い事だとは思っていなかった。むしろ、「俺って頭使ってるなぁ〜」なんて思っていた位。

でも、それって「頭の無駄遣い」なんだよね。

とある本にこんな事が書いてあった。

「人間は一度何か考え始めると、無意識下で答えが出るまで考え続ける。」

普通、人間は一つの脳みそにつき、一つの意識があると思っているけれども、実際にはどうも違うらしい。

人間が「意識」として認識している物は脳の極々一部の機能であって、実際には多くの思考や思念が無意識下で一斉に動いている。コンピュータ用語で言えばマルチエージェント的な働きをしている訳だ。

ここで重要な事は、脳のリソースは有限だって事。一人の人間の頭の中で存在が許される思考や思念の数にも限界がある。

だから、人間には「忘却」の機能がある。不要な事や都合の悪い事は忘れる事によって、脳の有限のリソースをやりくりしている。

ところが、これが何かのショックで「忘れる」事が出来なくなったり、あまりにも多くの「不安」が一斉に脳のリソースを使い尽くしたりすると、人はパニックや精神的な障害を持つ事になってしまう。

つまり、「忘れる」事こそが、脳を常にフレッシュに保って、本当に大切な考えに集中して考えられる方法なのだと思った。

私はたまに部屋で座禅を組むのだけれども、本当に座禅という物を知っている訳ではない。ただ、見よう見まねで、なんとなく心が落ち着くかと思ってやる程度。

でも、この「忘れる事」の大切さを悟って、やっと座禅の意味を知った気がする。座禅の瞑想とは、心を無にする事によって頭の中の「無駄な思考」をリセットする作業なのだと。それが出来て、初めて脳を最大限に活用する事が出来るのだと。

私は自分でも落ち着きが無くて、集中力が低い気はしていたのだけれども、要するに無駄な思考が脳のリソースを逼迫してたいので余裕がなかったんだね。それに、そんな無駄な思考が四六時中回っていたら、そりゃ頭も疲れてしまうわ。

そんな訳で、最近は如何にぼ〜っとして、無駄な考えを捨てれるかについて考えています...矛盾してるかな。

OLPCのeth0の設定

OLPCと言うよりも、Ubuntuethernetの設定の話。

Wifiを使う為にwicdとwifi-radarをイロイロ入れ替えているうちに、有線のLAN接続が出来なくなってしまって、難儀していた。

OLPCには有線LANの接続は無いのでUSB接続のEthernetアダプタを使っている。以前は何も考えずに接続するだけで使えたのだけれども、Wifi関連をいじっているうちに出来なくなってしまった。

まず、USB-Ethernetアダプタ自体が認識されているのかを確認すべく、以下のコマンドを実行する。

lsusb

"ls"コマンドのUSB版があるとは知らなかった。このコマンドで一応USB-Ethernetは認識されているは確認出来た。

つまり、USB自体の接続は出来てるのだけれども、ネットワークインターフェースとして認識出来ていないという結論に達する。ifupやifconfigも通用しない。

って事はネットワークの初期化プロセスを探れば良いという事になって、各所のフォーラムを漁っているうちに、"/etc/network/interfaces"が怪しいという事になった。

interfacesファイルを開いてみると、local network"lo"の記述は見当たるのに、eth0の記述が見当たらない。フォーラムに載っている情報からここに以下の記述をすれば良いのではと当り付ける。

auto eth0
iface eth0 inet dhcp

interfacesファイルを保存して、OLPCをリブート。あっけなくネットワーク復活。どうも、wicdとwifi-radarをアンインストールした時にネットワーク設定まで消されたのが原因らしい。

今日もまた一歩進んだぞ!っと。

次はWifiネットワークの設定だ。

Wifi接続が出来ない...そしてLinuxの本質への考察

OLPCへの日本語環境の設定に若干の不安を覚えつつも、パッケージマネージャで日本語関係のパッケージを放り込んだら思いの他あっけなく日本語化も成功。

ただ、Anthyを使った日本語入力が出来ずに戸惑う。ネットを調べるとLanguageサポートを変更する旨がいろいろと書いてあるのだが、XFCEにはそれに該当する項目が無い。OLPCXFCEを入れ、更に日本語化なんてレアケースすぎて参考になるサイトが殆どない。

結局、XFCEのログインスクリーンの下段に言語設定に関するボタンを発見。これで日本語を選択したらメニュー項目が全て日本語化され、Anthyも使えるようになった。う〜む、例えて言えば、家に入ってから照明のスイッチを探しても見つからず、困り果てて家を出てみたら玄関の外にスイッチがあったようなものか。

日本語化も無事に終わり、XOはほぼ実用環境へと近づく。

次の問題はWifi接続。これも思ったよりも深みにハマる。

外出時に使う事を念頭に入れてあるので、Wifi-RadarかWicdというWifi接続マネージャを導入するも、どうもうまく動かない。

Wifi-Radarはネット上でもイマイチな感想が多いので、評判のよいWicdの導入に的を絞る。

絞った所で動かないものは動かないのだが。

Wicdのhomepageへ行ってもあまり詳細な使い方みたいなものはなく、やはりネットでググって各種情報を漁ってみるも、明確な回答は得られない。

ただ、勘所は掴んだので、Wicdの起動スクリプトを眺めていじっているうちに、どうやらネットワークデバイスが認識されてないらしいという所まで進む。

"/opt/wicd/deamon.py"なんてファイルをいじるのだが、初めてこれらのスクリプトPythonで記述されている事を知る。Linux使ってる人には当たり前の話だろうけれども、自分には何か新鮮に思える。昔はcsh/tcshで書いてあったような気もするんだけど。

自分であれこれ調べながら進捗しているのは、やはり技術者としては楽しい。これがLinuxの醍醐味の一つだと人々が口にするが、自分もその一端を感じる事がやっと出来た気がする。

ただ、やはりLinuxをDesktopOSとして使う事のハードルの高さも痛感。PCにある程度精通してなければ、Linuxを常用するのははやり無理だと思う。

Linux初期のムーブメントとして「最後はMSを打倒し、全てのPCをWindowsから解放し、Linuxを万民に普く提供する」といった思想があったと思うのだけれども...なんか共産主義思想そのものだね、これって。

共産主義が理念ばかり高くて現実に根付かないと同じように、今回OLPCLinuxをインストールし、設定してみた体験をもって、Linuxのこの理念のやはり実現はしないだろうと確信した。

WindowsLinuxはその根本思想が違うのだ。同じPCを使い、同じOSという枠組みで考えるから比較/対象されてしまうが、実は全く異なった存在なのだ。

Windowsの本質はMSという会社が一般ユーザーに対して金銭と引き換えに提供する商品なのだ。今でもWindowsを使う事は一般ユーザーにとって学ばなければならない事は多いけれども、それでもWindowsを買う事によって一般ユーザーは「PCを使う」為に投資する時間を最小限度に抑える事が出来る。

「OSはPCを便利に使う為のもの」と考えるよりも「OSはPCを使う為の時間コストを最初に抑えるもの」と考える方がより見通しが良い。

今のWindowsの価格が適正かどうか判断するのはよく判らないけれども、少なくともその対価なりに、一般ユーザーはPCを使う上での「時間コスト」を節約出来る事は間違いない。

昔、MS-DOSが主流だった頃に、config.sysを書き換えるのにどれ程の時間的労力が必要であったか。それを知っている人間と知らない人間では今のWindowsがどれ程時間コストの節約になっているかについて理解する事は出来ないだろう。

つまり、Windowsとは一般ユーザーの時間コストを金銭をもって肩代わりする事がその存在の本質なのだ。

それに引き換え、Linuxは"Linuxコミュニティ"と呼ばれるように、ユーザーと作り手はフラットな関係であり、その間に金銭的関係がない。

どんなにお題目で「Linuxも普通の人が使える程簡単ですよ」と唱えてみても、やはりLinuxユーザーは嫌でもPCの仕組みについて理解しなければそれを使いこなす事は難しい。しかし、そこにLinuxの本質がある。

嫌でもPCの仕組みを理解する事によって、その人は将来のLinuxデベロッパの候補者になれるのだ。全てのユーザーがLinuxデベロッパになる訳ではないけれども、1000人のLinuxユーザーが居た時に、0.1%、そのうち1人でもLinuxデベロッパになれば、これはLinuxコミュニティの勝利なのだ。

Linuxは無償ソフトとされるけれども、その本質はデベロッパ一人一人の時間投資によって支えられている。それではその時間投資はどうやって回収できるのか?一般的には技術力の向上やコミュニティからの尊敬、人間関係の構築などが語られるけれども、それは近視眼的な成果に過ぎない。

もっと長期的、マクロな視点から観た時のリターンはLinuxとそのコミュニティの"存続"そのものなのだ。自分が安心して利用できるOSと自分を受け入れてくれるコミュニティの存続。それこそが最大かつ本質的な時間投資に対するリターンなのだ。

一人のリナックスデベロッパが1年の時間投資をLinuxコミュニティに対して行う。その労力の数パーセントが次のLinuxデベロッパを育てる糧となる。そのLinuxデベロッパが一線を退いても、彼の時間投資によって育った新しいデベロッパが、Linuxを支え、彼はその後数年、数十年に渡って安心してLinuxを使い続ける事が出来る。

Linuxは無償ソフトだけれども、それは金銭的な意味では無料であって、ユーザーの”時間”というコストはどん欲に要求する。その”時間”はLinuxそものの開発といったものから、ドキュメントの精読、他人への回答なども含まれる。

そして、それらの時間投資の集合として、Linuxは存在出来るし、そのコミュティは常に新鮮かつ柔軟で居られるのだ。

だから、今のLinuxが一般ユーザーが全く時間投資をせずに使えるような代物になった途端、Linuxコミュニティの存在は瓦解し、Linuxそのものが存在出来なくなるに違い無い。

Linuxは簡単になれば成る程、その価値が失われる存在なのだ。

つまり、LinuxLinuxである以上、永遠に「万人が使えるLinux」にはならない訳だ。

そう考えれば、「いつかLinuxWindowsを駆逐する」というのは幻想で、LinuxWindowsは全く異なる存在であり、それは永遠に共存するものと考える方がより自然であると思うのだ。

今、端から見ているとMSは苦戦しているように思える。そして、MSが会社組織である以上、いつかは倒産なり買収なりして消滅するであろう。ただ、それはLinuxの勝利では決して無い。それはOSというサービス商品を売る会社の一つが無くなった事を意味するだけであって、Linuxコミュニティの存在そのものには殆ど意味をなさない。

仮にMSが無くなっとしても、MS以外の会社がその開いたビジネス領域を引き継ぐに決まっている。もっとも、その頃にはMSのような巨大企業が存在しえるとは思えないのだけれども。

Ubuntuまみれ

OLPCUbuntuを入れようと思い立ったが吉日。早速行動を起こすも、やはり一筋縄じゃいかない。

OLPC wikiの情報を元に、まずはUbuntuがインストールされたマシンを予め用意する所から始まる。Ubuntuは幸いLiveCD版があるので、職場のPCをこいつで起動して、そこからXOのブートイメージの作成を行う。

しかし、これがまた何とも複雑極まりない。

まず、Ubuntuを起動した後に、その環境上でQemuと呼ばれるエミュレータを起動する。良く知らないだけども、フリーの仮想PCの類いらしい。この仮想PCに対して仮想ディスク上にインストールイメージを作成し、それをXOの起動イメージとして利用するという手順らしい。

夜、仕事が一段落したところでコレを開始したのだが、思いの外時間がかかる。まる1時間かかっても終わらなかったので断念して帰宅する。

ところが、帰宅後OLPC wikiを熟読し、リンク先などを辿って行くとなんとOLPC XO単体でUbuntuをインストールする手段を発見。さっさと寝ようと思っていたものの、気になって早速やってみる。

(参考ページ)
http://www.olpcnews.com/forum/index.php?topic=2240.msg21169

思いの他サクサク進んだところで、一つ壁にブチ当たる。ダウンロードしたUbuntuのイメージがなんか変。解説に書いてあるものと全く違う。

参考ページ上にあるリンクをダウンロードしてもて、数十キロバイト位しかなくて、明らかにOSイメージではない。

ダウンロードしたファイル名には~.torrentと書いてある...

あ〜これってもしや、BitTorrentって代物なのか?名前は聞いた事があるけど、実際に使った事も無ければ、観た事も無いので一瞬思案する。流石にこの業界にそれなりに居る身なので、直感で「コレはきっとP2Pのプロファイルで、何かしらのクライアントでダウンロードするのでは?」と当りをつけてググってみたら大正解。

TransmissionというMac用のBitTorrentクライアントをダウンロードしてきて、無事にダウンロードを完了する。

たかがUbuntuのインストールするだけで、コレだけ多くの事を学べるのかとちょっと感激。これがLinux学習の骨頂だと再確認。

無事にイメージファイルをダウンロード後、XOで展開。これに30分位かかる。その後は全く手順書通りにやって、全く何の問題も無くUbuntuのインストールが完了。

再起動後にUbuntuのブート画面が出て来た時には、うれしさよりもあっけなさの方が強い位であった。

これから日本語環境のカスタマイズでも始めようか。

OLPC再び

最近、ASUS EeePCが欲しい。

台湾へ出張に行った時にEeePC900を買う寸前まで行ったのだが、OSが中国語版だった事と、中文キーボードなのが何となく精神的障害となって諦めた。

それに、来週にはEeePC901の発表が控えている上に、COMPUTEXでは各社一斉にUMPCが発表になるようなので、自重という所。

この市場では日本メーカーの出る幕がない所に時代の流れやらいろいろと思う所があるのだけれども、今回は置いておく。

さて、そんなEeePC欲しい熱がちょっと下がって来ると、自宅にあるアレが脳裏によぎる。去年の暮れに熱病にうなされたようにして買ったOLPCのXOである。

ハードウェアとしての出来は個人的に気に入っているものの、やはり標準UIであるSugarは大人が使う上では少々やっかいな代物であるのは事実。元々Linux使いでもない私にはハードルが高すぎた。もっとも、買う前からそうなるであろう事は予想していのだけれども、ネグロポンテ教授の理念に共感を覚えてのお布施だからと半ば諦めて放置していた。

そんな背景なので今頃になってネットで調べてるると、案の序XO向けの代替えOSが登場している。Puppy-LinuxUbuntuが有力のようだ。

特にUbuntuOLPC Wikiでも手順が詳細に書かれている上に、Ubuntu-mobileというUMPC向けのパッケージも用意されているとの事なので、この際OLPCUbuntuを入れる事を決心する。

ところが、ここから少々道が長かった。

まず、OLPC XOは出荷状態ではOSの入れ替えが出来ない。教育用コンピュータなので、生徒が勝手にOSの入れ替えまで出来ないようにと考えたのか、Developer-keyなるものを手に入れないといけないらしい。

手順はOLPC wikiに載っていたのでその通りにやるも、"Page Not Found"的なメッセージが出て来て進まない。

どうやらネットワークに繋がっていないと駄目だと悟り、今度はインターネット接続をする事にしたのだが、ここからがまた長い。

OLPCは基本無線アクセスのみを考えていて、アクセスポイントはWAPが必須。セキュリティ上、自宅のAPはWPA-PSKなのでこれをWAPに変えるには少々抵抗がある。

一応、OLPC WikiではWPA-PSKを使った方法も提示してあるのだけれども、手順がやっかいな上に、その通りにやってもどうもうまく動かない。Linuxに多少は精通してないと細かい部分の調整が出来ないので、早々に諦める。

そうなると、USB接続のEthernetアダプタを使って優先接続するのが確実という事で、以前Fry'sで$5で買ったAirlink101を引っ張りだして来て接続。ただ接続しただけであっけなくインターネット接続が出来た。

所定の手段を経て、Developer-keyのリクエストを完了する。ただ、即日発行ではなく、1日待たなければいけない。一応、運営側でリクエスト者の認証を行うのだろう。

翌日、Developer-keyを受けとうろとOLPC XOを立ち上げたのだが、おかなしな事にインターネットに接続出来ない。

試行錯誤の結果、どうもEthernetアダプタのネットワーク設定が正しく設定されてないらしい。前日はなんら問題なかっただけに不可思議極まりない。

そこでまたOLPC wikiでUSB Ethernetアダプタの項目を熟読し、あれこれ試すうちに2日も経過してしまった。

このページを参考にした。
http://wiki.laptop.org/go/USB_ethernet_adaptors

最後はなんとか/etc/resolv.confにマニュアルでルータのアドレスを書き換える事で無事にネット接続が出来るようになり、所定の手段で無事にDeveloper-keyの取得に成功。

Developer-keyなんて言うから具体的にはどんなものかと思ったら、どうも所定のサイトからライセンスキーのようなものをダウンロードしてきて、OLPC XO内のフラッシュ領域に書き込むようだ。

ここまでやって、やっとUbuntuをインストールする準備の一つが終わったところ。先はまだ長そうだ。

三連休からの復活

台湾から帰って来て、即3連休だったのは有り難かった。台湾に三週間滞在していて、休めたのが殆ど1日だけだったと思う。

基本的に出張は嫌いではない筈だけど、二ヶ月の間に総計6週間の出張。プライベート時間が殆ど無かった上に、会社の食堂の味に少々飽きが来ていた。どの料理も油がふんだんに使われているので、それで胃がもたれてしまう。よく、イタリアへ旅行へ行くと、何でもオリーブオイルが使われて拒絶反応が起きると言うが、それに近いものかもしれない。

心の中にそんな拒絶反応が起きそうになっていたのを感じていた。この拒絶反応の気持ちを認めてしまうと、心に大きなシコリが出来そうだったので、出来るだけそれを考えないようにしていた。

人間、その時自分が置かれた立場を素直に受け入れ、そこに嫌悪、憎悪の気持ちを持たなければ、大抵の状況は乗り越えて行ける。

一度でも、「この仕事は嫌だ」「この場所へは行きたくない」という自分の心を認めてしまうと、その気持ちは加速度的に増幅されて、自分の行動にすら支障を来してしまう。例えれば、一握りの小さな雪の固まりが、雪の斜面を転がり続けるうちに巨大な雪玉となって、最後には雪崩の原因にすらもなる。

「不平、不満を言わず、どんな仕事も感謝して受けなさい。」というのは、宗教的、道徳的観念だけではなく、実際に実益を伴った智慧であると日頃思っている。

似たような例えに「人を恨めば穴二つ」というのもある。

誰かに恨みを持つような状況に陥ったとしても、そこから恨み続ける事と、忘れる事で、その人の生き方はかなり違ったものとなる。

事実、私は過去に親友のNに強い恨みを抱いた時期があった。その結果、苦しんだのは自分であった。彼と連絡を取るのも、取られるのも苦痛の時期があった。その陰惨な日々、自分は人を恨む事が、結局は自らを多いに苦しめるだけである事を悟った。

幸い、親友Nとは和解し、それをきっかけに更に友情が深まった事を今は実感している。

一度、何かの考えに心が捉えられると、心の柔軟性が奪われ、良くない方向へ進んでいってしまう。それを防ぐには、日頃から自分の心に注意を向け、小さな不満の時期からその芽を処理して行く以外に無いのかもしれない。

マインドコントロールと書くと「洗脳」なんていうネガティブな印象になってしまうが、こういう事こそが、本当にマインドコントロール。心の制御なのだと思う。

世界は変わらない。結局は自分が変わるしかない。自分の心を柔軟にする事こそが、自分を生かし、楽に生きる手段なのだと思う。

三連休を終え、今週から仕事が新しい局面を迎える。心をリセットして新しい日々に挑戦していきたいと思う。