Wifi接続が出来ない...そしてLinuxの本質への考察
OLPCへの日本語環境の設定に若干の不安を覚えつつも、パッケージマネージャで日本語関係のパッケージを放り込んだら思いの他あっけなく日本語化も成功。
ただ、Anthyを使った日本語入力が出来ずに戸惑う。ネットを調べるとLanguageサポートを変更する旨がいろいろと書いてあるのだが、XFCEにはそれに該当する項目が無い。OLPCにXFCEを入れ、更に日本語化なんてレアケースすぎて参考になるサイトが殆どない。
結局、XFCEのログインスクリーンの下段に言語設定に関するボタンを発見。これで日本語を選択したらメニュー項目が全て日本語化され、Anthyも使えるようになった。う〜む、例えて言えば、家に入ってから照明のスイッチを探しても見つからず、困り果てて家を出てみたら玄関の外にスイッチがあったようなものか。
日本語化も無事に終わり、XOはほぼ実用環境へと近づく。
次の問題はWifi接続。これも思ったよりも深みにハマる。
外出時に使う事を念頭に入れてあるので、Wifi-RadarかWicdというWifi接続マネージャを導入するも、どうもうまく動かない。
Wifi-Radarはネット上でもイマイチな感想が多いので、評判のよいWicdの導入に的を絞る。
絞った所で動かないものは動かないのだが。
Wicdのhomepageへ行ってもあまり詳細な使い方みたいなものはなく、やはりネットでググって各種情報を漁ってみるも、明確な回答は得られない。
ただ、勘所は掴んだので、Wicdの起動スクリプトを眺めていじっているうちに、どうやらネットワークデバイスが認識されてないらしいという所まで進む。
"/opt/wicd/deamon.py"なんてファイルをいじるのだが、初めてこれらのスクリプトがPythonで記述されている事を知る。Linux使ってる人には当たり前の話だろうけれども、自分には何か新鮮に思える。昔はcsh/tcshで書いてあったような気もするんだけど。
自分であれこれ調べながら進捗しているのは、やはり技術者としては楽しい。これがLinuxの醍醐味の一つだと人々が口にするが、自分もその一端を感じる事がやっと出来た気がする。
ただ、やはりLinuxをDesktopOSとして使う事のハードルの高さも痛感。PCにある程度精通してなければ、Linuxを常用するのははやり無理だと思う。
Linux初期のムーブメントとして「最後はMSを打倒し、全てのPCをWindowsから解放し、Linuxを万民に普く提供する」といった思想があったと思うのだけれども...なんか共産主義思想そのものだね、これって。
共産主義が理念ばかり高くて現実に根付かないと同じように、今回OLPCにLinuxをインストールし、設定してみた体験をもって、Linuxのこの理念のやはり実現はしないだろうと確信した。
WindowsとLinuxはその根本思想が違うのだ。同じPCを使い、同じOSという枠組みで考えるから比較/対象されてしまうが、実は全く異なった存在なのだ。
Windowsの本質はMSという会社が一般ユーザーに対して金銭と引き換えに提供する商品なのだ。今でもWindowsを使う事は一般ユーザーにとって学ばなければならない事は多いけれども、それでもWindowsを買う事によって一般ユーザーは「PCを使う」為に投資する時間を最小限度に抑える事が出来る。
「OSはPCを便利に使う為のもの」と考えるよりも「OSはPCを使う為の時間コストを最初に抑えるもの」と考える方がより見通しが良い。
今のWindowsの価格が適正かどうか判断するのはよく判らないけれども、少なくともその対価なりに、一般ユーザーはPCを使う上での「時間コスト」を節約出来る事は間違いない。
昔、MS-DOSが主流だった頃に、config.sysを書き換えるのにどれ程の時間的労力が必要であったか。それを知っている人間と知らない人間では今のWindowsがどれ程時間コストの節約になっているかについて理解する事は出来ないだろう。
つまり、Windowsとは一般ユーザーの時間コストを金銭をもって肩代わりする事がその存在の本質なのだ。
それに引き換え、Linuxは"Linuxコミュニティ"と呼ばれるように、ユーザーと作り手はフラットな関係であり、その間に金銭的関係がない。
どんなにお題目で「Linuxも普通の人が使える程簡単ですよ」と唱えてみても、やはりLinuxユーザーは嫌でもPCの仕組みについて理解しなければそれを使いこなす事は難しい。しかし、そこにLinuxの本質がある。
嫌でもPCの仕組みを理解する事によって、その人は将来のLinuxデベロッパの候補者になれるのだ。全てのユーザーがLinuxデベロッパになる訳ではないけれども、1000人のLinuxユーザーが居た時に、0.1%、そのうち1人でもLinuxデベロッパになれば、これはLinuxコミュニティの勝利なのだ。
Linuxは無償ソフトとされるけれども、その本質はデベロッパ一人一人の時間投資によって支えられている。それではその時間投資はどうやって回収できるのか?一般的には技術力の向上やコミュニティからの尊敬、人間関係の構築などが語られるけれども、それは近視眼的な成果に過ぎない。
もっと長期的、マクロな視点から観た時のリターンはLinuxとそのコミュニティの"存続"そのものなのだ。自分が安心して利用できるOSと自分を受け入れてくれるコミュニティの存続。それこそが最大かつ本質的な時間投資に対するリターンなのだ。
一人のリナックスデベロッパが1年の時間投資をLinuxコミュニティに対して行う。その労力の数パーセントが次のLinuxデベロッパを育てる糧となる。そのLinuxデベロッパが一線を退いても、彼の時間投資によって育った新しいデベロッパが、Linuxを支え、彼はその後数年、数十年に渡って安心してLinuxを使い続ける事が出来る。
Linuxは無償ソフトだけれども、それは金銭的な意味では無料であって、ユーザーの”時間”というコストはどん欲に要求する。その”時間”はLinuxそものの開発といったものから、ドキュメントの精読、他人への回答なども含まれる。
そして、それらの時間投資の集合として、Linuxは存在出来るし、そのコミュティは常に新鮮かつ柔軟で居られるのだ。
だから、今のLinuxが一般ユーザーが全く時間投資をせずに使えるような代物になった途端、Linuxコミュニティの存在は瓦解し、Linuxそのものが存在出来なくなるに違い無い。
Linuxは簡単になれば成る程、その価値が失われる存在なのだ。
つまり、LinuxがLinuxである以上、永遠に「万人が使えるLinux」にはならない訳だ。
そう考えれば、「いつかLinuxがWindowsを駆逐する」というのは幻想で、LinuxとWindowsは全く異なる存在であり、それは永遠に共存するものと考える方がより自然であると思うのだ。
今、端から見ているとMSは苦戦しているように思える。そして、MSが会社組織である以上、いつかは倒産なり買収なりして消滅するであろう。ただ、それはLinuxの勝利では決して無い。それはOSというサービス商品を売る会社の一つが無くなった事を意味するだけであって、Linuxコミュニティの存在そのものには殆ど意味をなさない。
仮にMSが無くなっとしても、MS以外の会社がその開いたビジネス領域を引き継ぐに決まっている。もっとも、その頃にはMSのような巨大企業が存在しえるとは思えないのだけれども。